古い美術品を集めるのが好きだ。そのひとつが掛け軸だ。掛け軸に書いてある「漢詩」は全部漢字で、おまけに行書だなんて英語も分からないがそんなものじゃなく、全然読めない。漢字の意味なんてもちろん分からない。人間分からないと、何とかして分かりたいという気持ちが脳味噌のなかに日に日に増えて来る。そうだ、近所に90歳をこえる元先生がいる。と思ったら、もうその家にお邪魔していた。
上がりなさいと言われて、先生はもう、山本有所の漢詩の掛軸を畳の上に広げていた。90歳の元先生も私も何十年もご無沙汰しているから、う〜ん、難しいね、そうだうちの倅の方が分かるかもしれない。おいおいおまえの方が分かるだろうと、現役の先生をしている倅さんを呼んだ。何より先に行書が読めないと、お話にならない。やはり、う〜ん、と読めないですね。
でもいきなり行ったのに、現役の先生が言うには、「漢詩は七言絶句といって漢字を二字、二字、三字として読んで、最後の字が韻を踏むように出来ていて、二十八文字で出来ているのが漢詩なんですよ、韻はさいごにリズムを取るように漢詩はできているんです。」と説明してくれた。私の脳味噌は七言絶句とか韻を踏むとか、まるで太平洋の真中で犬かき泳ぎをしているようで、岸は見えない、足は底に着くわけがない状態だ。
そうしたら90歳の元先生が「少し分かるかな、年齢のことが書いてあるようです。」と言った。「百の半分は五十でまた二年過ぎたといっているので、作者の山本有所さんの年齢が五十二歳だと書いてあるようですよ」と教えてくれた。上の字を読んだり下の字を読んだり、たいへんだ。それでも私の脳味噌は大変嬉しかった。広い太平洋で溺れていたら、縦1メートル横20センチの木の丸太を見つけて、しがみついたような感覚を持つことが出来た。
漢詩に興味がない人には大変申し訳ないですが、私の脳味噌がこの木の丸太にしがみついて、どこまで泳ぎ着くことができるか、興味を持てた人は、お付き合い下さい。
私は漢詩を読めるようになりたくなった。県内に漢詩の教室があるが調べたがなかなかない。富岡市に富岡漢詩会というのがある。そこへ電話をして「漢詩の読めない字を教えてもらうことは出来ますか。」と聞くと、「富岡漢詩会は漢詩の詩を作るところです。字を読むところではありませんよ」とのこと。は〜。「でも良かったら7月に23期生を募集していますから見に来て見たらいかがですか」。富岡漢詩会の会員はおよそ90人いるという。90人? ビックリ!!
明治時代ごろが特に盛んに漢詩が読まれたということだ。少しでも江戸時代後期から明治大正の息吹を感じとれたらいいな。私の脳味噌の皺も何ミリか増えるかな?
7月になった。富岡公民館に着いた。見ると茶色い煉瓦模様の3階建ての建物で、2階に「富岡漢詩会」と立て看板が書いてある。未知の世界の扉をノックする自分がいた。教室の中には白髪の年輩者ともう一人年輩者がもういた。初めましてこれから宜しくお願いします。と挨拶を交わした。しばらくして、次々に6人が入って来た。随分やる気充分のような男の人が、私の机の左側に座った。どんな顔をしているか半分しか見えない。他の人は私より後の席なのでまったく見ることができない。
皆さんそれなりに年を重ねて来た人たちだが、さすがに初めての顔合わせなので、一種独特の間合いがある。私を始め皆さん体に力が入っているようだ。フワン、フワン感でいっぱいの様な雰囲気のなか、白髪のN先生が「皆さん」と口火をきった。
「これから皆さん7人は23期生です。これから一緒に10カ月間漢詩の勉強をして行きましょう。では、最初に班長をこの中から決めて下さい。」
私は顔を下に向けて、私にならないようにと思う間もなく、私の左側の人が「はい」と右手を高々と上げた。「私が班長をします。え〜、私は全部主席でできると思います」と言う。
私の経験では、こういうたぐいのものは、なかなか自分から班長や幹事をしますと、手を上げる人はいない。他の皆さんもほっとしたのではないか? 皆が拍手して決まるとN先生が、「じゃあ班長さん、皆さんに号令をかけて下さい。」。何十年振りだろうか、号令にあわせて起立した。椅子がガガガと音をたてて皆が起立した気配で、よろしくお願いしますと頭を下げた。「着席」と班長がいうと、また椅子がガガと音をたてた。
N先生が、「右側の席の人から起立して自己紹介をして下さい。」と言う。恥しいが、挨拶をしている人の方を振り向く勇気がなかった。私のほかの6人の23期生は、全員男女とも、どうして自分が漢詩を勉強したいのか、はっきりその目的を一人一人話をした。
オイオイ、皆何者なんだ。私はとんでもないところに来てしまった。そういえば来る前に「富岡漢詩会は元先生が多い」と聞いていたが。
左隣りの班長さんは挨拶で「漢詩を勉強していればボケる暇はないので、私は120歳まで生きられると思います。」などと言った。おおぃ、逃げ出したい。タスケテー。出入り口のドアを見ると、なんだか内側のノブが外れてなくなっているように感じられた。あれでは逃げられない。
というわけで、男性3人女性4人に先生2人で、未知の漢詩の世界へ歩きだした。
だれだか大昔の武将を思わせる人物が入って来た。ドッシリと腰を下ろす。次いで、もう一人の人物が入ってきた。ずいぶん威厳に満ちた人物2人だ。威圧感さえ感じた。戦国武将の位の高い人物が現在に現れたらこんな感じかな? 一人は会長、もう一人は選者のS先生だという。
私の電話に出てくれた人物はどうもS先生のようだ。S先生が「漢詩は難しくないからだれでも漢詩は作れますから頑張って楽しみましょう」と挨拶をしながら、私を見て「漢詩の字を教えてもらえますかと電話をかけて来たのはお前か」とばかりに目が光った。ワオー。
何だかわからない内におわりの時間が来てしまった。「次の回までに最初の漢詩の作品を仕上げて下さい。」とN先生が言った。え〜。まったく分からないので私はN先生にお願いすると、手取り足取り教えてくれた。I先生も一緒になって教えてくれた。一息して回りを見回すと、もうだれも23期生はいない。俺の脳味噌はここにいていいのだろうか? でも今までにない先生の熱意にビックリした。
2回目の教室が始まった。N先生が「皆さん、これから全員黒板に自分の漢詩を書いて読んで
貰います。」と言った。私の体は夏なのに全身凍りついた。実力が丸裸になってしまう。
皆が黒板に漢詩を書き終えて自分の席に着いた。N先生が「では、順番に自分の漢詩を起立して大きい声で読んで下さい。」と言った。自分の番に来るまで他人の漢詩を聞く余裕は0である。
私の番になった。読み終わるとN先生が「小板橋さん、こんな字は世の中に存在しません。」と言った。「天という字は、上の一の字が下の一の字より長くなくては天という字ではありません。」。続けてN先生が「この字も世の中に存在しません。」。「落ちる」という字だ。自分ではどこが間違っているのか分からない。少し間が空いた後にN先生が教えてくれた。今まで自分はどれほどいい加減な字を書いて世の中を生きてきたのだろうか? 冷や汗なんてものでなく、まさに太平洋の真っ暗な闇の底に引きこまれていく感覚を味わった。
N先生が「この23期生の中に漢詩がとてもうまい生徒が1人います。」と言った。一番後ろに座っている男性のYさん。私は振り返り、初めてYさんを見た。私は必死でもがいて、うきあがり、太平洋に浮かんだ丸太にしがみつこうとしていた。あの時、どうして嫌にならないで、丸太にしがみついたのか、今でもよく分からない。
10カ月後、23期の教室を卒業できたのは、男性2人と女性4人の計6名だけだった。その後、21期、22期、23期生が一緒に富岡の社会教育会館で、3年間漢詩を勉強してきた。
じつは今年がその3年目になる。
・・・・
漢詩の勉強が終わると先生を囲んで、他の生徒さんたちとお茶をすすりながら30分ぐらい世間話をした。ある日、「120歳まで生きる」と言った班長のKさんが、「昔アメリカに50万円で行った。あれは安かった」と私にもらした。その後の話で、Kさんは20代の頃に、アメリカを1年かけて自転車で1人で横断した人だと知った。見せてもらった当時の記事がこれだ。
1日平均130キロ、野宿しながら走った北米大陸2万8000キロ。アメリカ、カナダ、メキシコ、中米の北米大陸を約1年掛かりで走り抜いたガッツな自転車野郎がいる。群馬県甘楽郡甘楽町に住むKさん(25歳)だ。ほとんどが野宿で、1日の費用は、わずか600円。走行距離は延べ2万8000キロ。・・・旅の終りに近いメキシコ。テントの中でもだえ苦しみ、死に直面しながら「人生は短い。だから好きなことをしなけりゃ」と思い続けたという彼は、「ここで終わってたまるか」と冒険心をさらにつのらせたという。
Kさん(25歳)は1975年の10月から76年の11月にかけて、愛車“エターナル”(BS―DC15)を駆って北米大陸をひとりでかけ巡ったガッツ・サイクリストだ。北米のシアトルから西海岸を南下してロスアンジェルスへ、そしてロッキー支脈を横切りフロリダ半島を1周。さらにワシントン、ニューヨークを走り抜け、北上してカナダに入る。再び南下してロッキー山脈を縦走して、メキシコを経て中米へ。
巡った国は10カ国、1日の平均走行距離は約130キロ。延べにして2万8000キロを走り終えて今思うことは、常にギラギラと冒険心をたぎらせておくことが成功の秘訣だったと彼は言う。それが結局、「普通の生活では味わえない何かを発見する」ことにつながるというのだ。費用はわずか50万円。1日わずか600円の生活費。しかも殆ど野宿で北米大陸を単独走破したのだから、彼の根性は並大抵のものではない。傘で雨水を集めて飲水にする方法、スコールを利用した入浴方法など、彼独自の生活の知恵を発見しながら、貴重な財産である世界の仲間との“友情”を確かめあう「世界はやはりひとつだった」と、彼は2万8000キロの冒険ランを終えて初めて実感する。
と「サイクルスポーツ」という雑誌の当時の記事に書いてある。
今から39年前の25歳の時だというから、現在は64歳。私より3歳年上だ。39年前なら、私はアンクルサムのお店を出して6年目だ。やっと1年がどんな感じでお店の商品が回っていくか、またどんなフライマンがお店に寄ってくれるかが、分かり始めたころだった。それこそ自転車操業だった。今はますます自転車操業だ。
北米大陸の地図に絵が書いてある。東京12チャンネルでKさんの特別番組を放送してくれた時に、テレビ局が作ってくれたのだそうだ。そのナレーションは、夏目雅子さんだった、という。
少しこじ付けになるが、私のお店のアンクルサムの名刺には、アメリカ合衆国の絵が書いてある。小さいドライフライの絵は、自分自身でアメリカにいつか行ってみたいという願望の印だ。でももうその時にはKさんは実行していたんだな。北米大陸2万8000キロに挑戦する前には、自転車で北海道から沖縄まで日本1周をやったのだそうだ。
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23期生は皆、雅号をもらえることになった。
富岡漢詩会で「雅友(がゆう)」という自作の漢詩を載せた本を、5年に1回作っている。私も二首その「雅友」に乗せることができた。本当は勉強を始めてから5年たたないと、世の中に出すことはできない決まりになっているのだそうだ。まだ3年目の私は運がよかった。
私はまだまだ駆けだしだ。最初の頃は選者の先生におい、おいこっちこいなどと呼ばれていたのが、最近は「あなた」などと呼ばれる。いつになったら名前か雅号で読んでもらえるのか、その時までは、だまって丸太にしがみつき、太平洋を犬かきしようと思う。常にギラギラと冒険心をたぎらせて。
漢詩会に行く途中、牛の放牧風景に巡り合えた。Kさんにもらった竹の子を煮て、竹の子御飯を作って食べた。
バンブーロッドをかじるとこんな味がするのかな?
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小板橋伸俊(アンクルサム/群馬県安中市松井田町)
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