2015年09月12日

6世紀の簗瀬二子塚古墳(やなせふたごづか)と楫取素彦(かとりもとひこ)さん、白戸さんのダブルハンド・ロッド

今、私の脳みその中では、安中市の二子塚古墳と、NHKの大河ドラマに出てくる楫取素彦とが、深いふか〜い、長いなが〜いタイムンネルで繋がっている。いや、繋がったのだ。それを解き明かしたのは私の脳みそだ。

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今年の夏、いつものように広報あんなかを読んでいると、「簗瀬二子塚古墳7月19日(日)オープニング見学会」の記事を見つけた。すぐそばを碓氷川が流れている簗瀬二子塚古墳は、6世紀の史蹟だ。今年の7月に公園として整備されたので、その案内会の記事だった。以下、二子塚古墳のパンフレットから。

◆概要 簗瀬二子塚古墳は、安中市域に初めて登場した大型前方後円墳で、古墳時代後期初頭(6世紀初頭)に築造されたと考えられています。この地域一帯を支配した有力者の墓と推測されます。また古墳の埋蔵部分は横穴式の石室が作られています。この横穴石室は、上野地域さらには東国において、石室が竪穴式から横穴式へと移る最初の頃のものと考えられ、学術的にとても重要な古墳です。

◆規模 2段築造の前方後円墳で全長約80メートル、後円部径約50メートル・高さ約8メートル、前方部幅約60メートル・高さ7メートル、上野地域の古墳時代後期初頭(6世紀初頭)最大級の古墳です。外周溝が全周したと考えると、古墳全体の規模は全長約130メートル全幅は約110メートルと推測されます。

◆古墳の整備 本墳は墳丘の残りがとても良かったため、古墳の保護を目的とした整備を行いました。墳丘の形状を変えることなく、古墳全体に盛り土を行う方法を用いています。

◆石室 全長11.54メートル羨道長はかみち。墓の入り口から地下の棺を安置した所へ通ずる道。7.47メートル(幅0.67メートル〜0.95メートル)、玄室長4.07メートル(幅2.16メートル〜2.32メートル)高さ2,20メートル。天井石には秋間石(溶結凝灰岩)が使用され、近くの碓氷川の川原石を使用している壁石には赤色顔料(ベンガラ)が塗彩されています。

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じつは21年前、私は「松井田町の遺跡を見る会」で、簗瀬二子塚古墳を見に行ったことがある。私のアヤシイ記憶だと、竹藪に覆われていた。こんなに高い所に古墳の入り口があったとは思えなかった。ここからは21年前の記憶です。

… 役場の担当者の女性が言った。「土地の持ち主に古墳の中へ入って見ることを了解していますから、順番に入って見て下さいね。」
中が真っ暗で懐中電灯で照らさないとまったく分からない。懐中電灯はありますか、と最初に入ろうとした人が言ったら、「あら大変、懐中電灯を持ってくるのを忘れてしまった」と担当者の焦った声が古墳の中にヤマビコのように入り口に跳ね返って来た。参加した皆のため息が、今度は竹藪に広がって消えていった。古墳に入るのだから、自分の弁当を忘れるよりも懐中電灯を忘れるなんて、と、かわいそうに参加者にいじられていた。小さい懐中電灯を持ってきていた人が何人かいて、皆でそれを借りて一件落着。

石には朱色が塗ってあるのが分かる。その石がなんだか湿気を帯びていた。虫の名前が思い出せないが、家の中にたまにピョンピョン足が長く、お腹がアーモンドの形のイメージの虫が出るが、あれと同じ虫が、懐中電灯の光で何匹か眩しそうにして、石の隙間に逃げ込んでいた。たしかひょうきんな名前だったような気がするが思い出せない。古墳の中は結構広く、奥の行き止まりの天井の石が、ずいぶん広く大きかったような記憶がある。とりあえずコウモリが飛び出してこなくてよかった。 …

この頃の少し前から、私は中山道沿いの地元、松井田近隣の文化や歴史に興味を持ってのめり込みはじめていた。そんなとき、原市の小母さんから「ノブちゃんは昔の事を調べるのが好きなんだって?」と言われた。私の母方の曾曾爺さんが、五十貝莎堂という雅号で書や絵を書いていた。だから原市の小母さんにも「莎堂さんの絵か書が出てきたら教えてください」とお願いしていた。すると小母さんが「莎堂さんの書を持っている人がいるから、話を通してあげるよ」と教えてくれたのだ。それが最初に簗瀬二子塚古墳を見に行った年と同じ、21年前のことだった。

原市の小母さんが紹介してくれたKおばさんはなんと、簗瀬二子塚古墳のある土地の地主だった。普通の人には絶対見せないものなんだけど、と言って、古墳から出て来た副葬品を見せてくれた。玉類(金箔ガラスの三連子玉、勾玉、水晶製丸玉など)、装身具(金銅製耳環など)、石製模造品(鎌・刀子・斧・白玉など)、武器類(鉄鏃・直刀・鉄小札)、馬具(杏葉・辻・金具など)、須恵器などが、縦50センチ横20センチの長方形の薄い箱の赤い布の中に並べられていた。12箱もあった。焼き物は50センチ真四角の2箱にきれいに並べられていた。その写真がこれです。

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今から見ると何とへたな写真だろう。フィルムの時代だったのでデジカメのようにバチバチ何枚もシャッターを切れなかった。でも、今から考えれば、何と贅沢な時間だったのだろう。6世紀初頭の人たちが使っていた現物が、目の前にあった。ふだんは博物館でガラスケースに囲まれているものだ。あの時のわたし古墳からの出土物にはあまり興味を持たなかった。21年たった今になって、地団駄を踏んでいる。

その時Kおばさんが見せてくれた莎堂さんの書の写真はこちら。楷書で「上毛碓氷郡坂本…」ぐらいまでは、当時の私にも読めた。その時のことは空白状態で思い出すことができない。字がずいぶん優しいので、人物も優しい人だったのではないか、と思ったことは覚えている。ご先祖さんの書に巡り会えた幸運な日であった。その日は他の、とんでもない人の漢詩や書も直接見せてくれたようだが、豚に真珠状態だったので残念、残念悔やまれる。

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今年7月、改装なった簗瀬二子塚古墳の見学会へ出かけた。若そうな担当者が説明してくれた。「皆さん。小さい濠があり、橋もあります。この橋を渡れば、この世では無く紀元前6世紀の世界です。」と、若者は仮面ライダーのベルトのような拡声器で説明し始めた。
「もしかすると国指定の遺跡になるかもしれません。6世紀当時のまま埴輪などもそのまま埋めてあります。土が60センチぐらい被せてありますから、道どうりに歩かなくても、どこを歩いてもかまいませんよ」。参加者から、「えええ〜」と歓声のような声が上がった。



参加者は100人以上はいただろうか? 遺跡の頂上に登ると、360度見渡す限り、山々山。南西側に私のDNA、妙義山とその横に浅間山、北側に榛名山、北東に赤城山が見える。南へ100メートルも行けば碓氷川だ。6世紀に暮らしていたひとたちは、碓氷川のことを、何川と読んでいたのかな? 6世紀にはアユはいたのだろうか? いたとしても友釣りはなかったろうに。手でつかむか、石と石をぶつけて、アユを浮き上がらせていたのかな? そもそもアユなんて魚の名前があったのかなあ?


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古墳の頂上から見える景色は、現代人も6世紀人も同じだ。妙義山、浅間山、榛名山、赤城山が全部見える。雄大な景色をさえぎる建物が見当たらない。今年東京スカイツリーを見に行ったが、なんだか登った気分がしなかった。それに比べて簗瀬二子塚古墳は、たった高さ8メートルしかないが、私の脳みそをこんなにドキドキワクワクさせてくれるのは、いったいどうしてなんだろうか。

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いまやっているNHK大河ドラマ「花燃ゆ」に出ている楫取素彦(かとりもとひこ)さんが、簗瀬二子塚古墳にちなんだ漢詩を詠んでいる。楫取素彦さんは、吉田松陰(1830〜59)の妹、文さんと結婚した長州藩幕末の志士だ。

観簗瀬村出土器
楫取畊堂(こうどう)雅号(ペンネーム)
王 孫 芳 草 碧 無 透  (王孫芳草 碧透き無し)
遺 壙 荒 涼 経 幾 年  (遺壙荒涼として幾年を経たる)
磁 偶 瓦 瓶 残 欠 在  (磁偶瓦瓶 残欠在り)
撫 摩 弔 古 意 愴 然  (撫摩して弔古す 意愴然たり)

(語釈) 
王孫―天子・諸侯の子孫
芳草―かおりのよい草花
荒涼―あれはててものさみしい
愴然―悲しみいたむさま

莎堂の展示会で大変お世話になった「安中学習の森 ふるさと学習館 」の学芸員さんに聞いてみると、当たり前のように、この詩の存在を知っていた。簗瀬二子塚古墳の当時の地主さんは、古墳からの美しい出土品を持って近隣の名士たちを訪ね回り、詩歌を求めたらしい。そして書いてもらった詩歌を集めて、【尚古帳】というものを編集したのだという。その中に楫取素彦の漢詩や、莎堂さんの書や、当時の内閣大書記官をしていた金井之恭の書などがあったのだ、と学芸員さんは教えてくれた。

21年前にわたしが見た漢詩や歌や書や絵は、まさにそれらの貴重なものだったのだろう。知識が無かったのがとても悔しい。



楫取素彦さんは簗瀬二子塚古墳から車で5、6分の距離にある磯部温泉に別荘を持っていたのだという。さっそくわたしは磯部温泉街を探し回った。楫取素彦と聞いても、だれも知らない。やっと夕方、場所が分かった。それは何回も通っている道路沿いの旅館の敷地だった。大きい松の下に白い杭があり、そこに「初代群馬縣令楫取素彦別邸跡」と書いてある。奥に旭館という旅館がある。訪ねてみると若奥さんが「そうですよ」と話してくれた。「私は嫁に来たのでよく分かりませんが、昨日も楫取さんの本を出したいと、訪ねて来た人がいましたよ。」と話してくれた。わたしはそれだけで十分だった。

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簗瀬二子塚古墳の地主さんは、わたしが21年前に見たあのケースに美しい古墳からの出土品を入れてこの別邸へやってきて、楫取さんに見てもらったのかもしれない。そして同じ出土品を、どこかで莎堂も見たのだろう。

吉田松陰(1830〜59)の妹、文さんと結婚した長州藩幕末の志士、楫取素彦さん。私の曾曾爺さんの莎堂と楫取さんとが、遠く離れた群馬県の簗瀬二子塚古墳で繋がった。最初に、深いふか〜い、長いなが〜いタイムンネルで繋がった、と書いたのはそういうことなのです。そしていま私の頭のなかには、簗瀬二子塚古墳の6世紀人が、碓氷川の夜の川辺に立って、左手にヤリを持ち右手に竿を持ち、猫のような目付きで魚獲りを用心深く楽しんでいる姿が、浮かんでいます。

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追伸1: 『フライの雑誌』からオイカワ釣りの記事のアンケートが来た。地元の80歳ぐらいのお爺さんに聞くと、「子どもの頃はオイカワなんて魚は碓氷川にはいなかった。」と教えてくれた。「わかんねいけど、アユを琵琶湖から碓氷川に放流した時に混ざったのじゃねいか?」とも話してくれた。わたしは昔からオイカワは碓氷川に生息していたと思っていた。この辺りでは、オイカワのことを、ガラッパヤとかハヤとか呼ぶ。オスを「おばさん」とも呼ぶ。

追伸2: うちのお店で何本もバンブーロッドを買ってくれているお客さんが、「小板橋さん写真を見て下さい」と写真を持ってきてくれた。「尺にはちょっと足りないかもしれません」。おー、でっけい。丸々としている。どこでこんな大きいヤマメを釣ったわけかい。「碓氷川です。虫もたくさんハッチしていました」。ほんとに。ドライかい。「ええ」。う〜、いいよいいよ、こんなヤマメを地元の碓氷川でフライで釣ったんだ、いいねえ。「小板橋さん、来年の上州漁協の年券をもう買いますからね」。今からそんなことを言ってくれると上州漁協の役員が喜んじゃうよ。

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追伸3: お店で一番人気の白戸ロッドの白戸さんと、今年の夏のはじめに、二人で簗瀬二子塚古墳へ行きました。その時に白戸さんに撮ってもらった写真も載せておきます。

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その白戸さんは3年以上悪戦苦闘した末に、ついに今回、ダブルハンド・ロッド・デビューの運びとなりました。

トンキンケーン(ダブルハンド)ロッド#7 10‘6“
3ピース   37,000円(税込)
トンキンケーン(ダブルハンド)ロッド#7 9‘6“
3ピース   39,000円(税込)チタンガイド

トンキンケーン(節あり) #3 6‘8“(竹)フェルール
29,500円(税込)
トンキンケーン      #4 7‘6“
ワン&ハーフ (ノ―ドレス、ブラスフェルール)
29,500円(税込)

トンキンケーンルアーロッド  5‘10“ XUL
0.5〜3g   36,000円(税込)


rod-DSCN1825.jpgdouble-DSCN1826.jpgrod-DSCN1876.jpglure-DSCN1866.jpglure-DSCN1861.jpg

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小板橋伸俊(アンクルサム/群馬県安中市松井田町)


※「マルタの雑誌」は季刊『フライの雑誌』読者が対象のweb投稿企画です。

ご投稿はinfo@furainozasshi.comまで
posted by furainozasshi at 07:07| 中山道の釣り旅