2015年12月29日

第13回 箕輪城まつり 「今、蘇る 戦国合戦絵巻」(1)

「箕輪城まつり」参加者申込書のチラシを手にした。今は子供も大人も田舎は少なくなっているから、こうしたチラシなどで募集しないと、お祭りもできなくなっているのが現状のようだ。私の町も2年に1回の秋祭りで、町内の山車を子供たちに引っ張ってもらうのだが、私の町内の子供は1人だけで、太鼓や笛など演奏するのは、違う町内の子供たちにお願いしている。その違う町内の子供たちも、あと何年かしたらいなくなる。いち田舎の問題ではなく日本が立ちいかなくなる現実がもう、始まっている。これからお祭りなのに何だか暗い気分になってしまった。ド〜と明るく行きましょう。

箕輪城まつりの申込書の写真を見ると「今、蘇る 戦国合戦絵巻第13回」とある。武者行列で終わりじゃないのか。へ〜と思ったら、私の脳味噌に「行かなくてはだめだろう」スイッチが入った。何10年か前、母が前橋の群大病院へ通院していた時から箕輪城は知っていた。地元の松井田城や人見城や後閑城などの本丸はぜんぶ猫の額のように随分狭い。

箕輪城もどうせ似たようなものだと、自分がすこし見下した気持ちで、下見に行った。すると手前に大きい駐車場ときれいなトイレもある。地元の人たちは随分気合が入っている。地元のお年寄りが1人何やら手入れをしていたので「ここから箕輪城へはどの位かかりますか」と尋ねるとすぐそこですと指さして教えてくれた。私も田舎者ですが、「田舎のすぐそこ」は1時間か2時間ならまだ近いほうのことが、往々にしてある。でも大きいカーブを2回ほど曲がると、もう本丸は目の前だった。

私の地元のお城は、本丸はかなりひいひい言いながらまだかと見上げる感覚だが、箕輪城は近いのと本丸の広さにビックリ仰天だ。箕郷の人には申し訳ないがこんなに広い土地があるなんて知らなかった。東京の皇居の中に入ったことがあるが、前もって大きくて広いということを脳味噌に詰め込んでいたせいか「へ〜」ぐらいだったが、箕輪城にはだまされた。

箕輪城の本丸は、南北が約100メートル、東西約70メートル。ちょっとオーバーかもしれないが日本もずいぶん大きいなと思えてしまった。自分は井の中の蛙であることを思い知らされた。

本丸の入り口の近くにポストがあり、箕輪城の歴史という説明書があったので1部をもらった。何も知らない私はお祭り気分で来たことを今恥じている。

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国指定史跡箕輪城跡 昭和62年12月17日国指定
平成18年2月13日(財) 日本城郭協会選定「日本百名城」

◎箕輪城の歴史
・箕輪城は西暦1500年ころに高崎市の浜川(はまがわ)地域を拠点にしていた長野(ながの)氏が築城した城です。
・長野氏に関する文書史料が少ないことから、築城年・築城者など不明の点が多くあります。後の系図などから、築城者長野業尚(なりひさ)尚業(ひさなり)で、その後、憲業(のりなり)信業(のぶなり)、業政(なりまさ)、業盛(なりもり)の計4代にわたって、長野氏が箕輪城を拠点にしていたと考えられています。
長野氏は業政の代に全盛期を迎え、西上野の諸将と婚姻関係を結び、勢力を広げました。永禄年間に入ると、西上野は甲斐の武田、相模(さがみ)の北条、越後の上杉の三巴(みつどもえ)の戦いの舞台になります。その結果、長野方の要所である国峰城(くにみねじょう)甘楽町(かんらまち)、安中城(あんなかじょう)(安中市)、松井田城(安中市)、倉賀野城(くらがのじょう)(高崎市)などが武田信玄によって落城してしまいます。こうした中、長野業政は関東管領山内上杉家に対して、最後まで尽くしていたことで知られています。そして、永禄9(1566)年、難攻不落であったと伝えられる箕輪城もついに落城することになりました。
・落城後は、武田・織田・北条・徳川氏の城として使われます。この間城主になったのは、各戦国大名の重臣で、武田氏時代(1566〜1582)年は内藤昌秀(まさひで)(昌豊)(まさとよ)など、武田氏時代は(1582年の1ヶ月弱)は滝川一益(かずます)、北条氏邦(うじくに)などが城主を務めています。そして、最後の徳川氏時代(1590〜1598)年な、井伊直政が徳川家康の家臣では最大の領地(12万石)を拝領し城主になっています。このように、戦国時代を通じて、
西上野で最大の拠点になった城です。

◎箕輪城の遺構
・箕輪城は1598(慶長3)年、高崎(和田)に移城したことによって、廃城となりました。
・廃城に伴う移築などから当時の建物は全く残っていませんが、大規模な堀や石垣 などは良好に残り、当時の様子を偲ばせています。
・箕輪城の最大の特長は、大規模な堀です。本丸周辺では最大幅30m、深さ10m空掘りが巡り、他にも、城の中央部を南北に分断する役割がある大掘切りなど同時代の城としては全国的な規模の堀が城内各所に残っています。なお、大部分の堀は空掘と思われます。
・大手門から本丸へ上がる途中の虎韜門(ことうもん)・鍛冶曲輪(かじぐるわ)・三の丸・二の丸などには石垣が残っています。城内の中でもこのルート沿いに石垣を集中しています。城の目立つ場所に城主の権威を示すために築かれたのかもしれません。
・箕輪城は長野氏以降、城主が度々変わっています。発掘調査などでは、城主の交代による城の造りかえの状況が明らかになって来ています。現在ある堀や石垣などは最後の井伊氏時代に使われていたもので、長野氏時代の城とはかなり異なっています。

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日本百名城にも選ばれているんだ。へ〜。二の丸は縦横80メートルの郭でやはり広い、空掘りもうっそうとしているがしっかり残っている。本丸入り口西側に箕輪城の歴史についての大きい碑がある。

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広い本丸の真中に大きい石が二つと幾つか小石もある。これは箕輪城の中心を意味しているのかな? その時は私の左手はもう大きく広げていた。五本の指が西暦1500年にタイムスリップして行く感覚を止められない。ア〜ッて、いう感覚が私の脳味噌を大きく揺るがしていた。

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本丸箕輪城には天守閣はなかったが、多数の「かわらけ」や楽茶腕などが発掘されていることから、城主の住む建物や軍議を開いたり、酒宴を催したりする館があったと推定されている。城主の交代を契機に城の造り替えが行われたことが発掘調査で確認されたそうだ。
本丸の北虎口(きたこぐち)の門は間口5.4m奥行3.3mで本丸の3ヶ所の門の中で最大の規模のもの。門跡の周囲には101個の四角い石塔で排水溝が造られ、石塔には梵字(ぼんじ)や15世紀の年号が刻まれているものもあった。これほど大量に石塔を用いた例は全国的にも珍しいといわれている。

当時はコンクリートなんてものもない訳だから、崩れないように人の手で石を積んだ。ものすごい労力が必要だったのだろうな、こんな山の中へ。と思うとなんだか当時その石を積み上げた人足か武将に、「お前も一つこの石を持ち上げてみろ」といわれたような気配を感じて、また左手の五本指が自然と石に触らされているように触っている自分がいた。「持ち上げるのは勘弁して下さい」と言葉にだしてはっきり言っている自分にハッとした。

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本丸の西虎口は、間口2.4m、奥行1.5mで堀の向こう側は蔵屋敷。橋台があったと考えられる場所には、大量の盛土が行われていた。橋の規模は橋上部の幅2.9m、高さ7.4m、長さ27mであったと推定されている。北虎口の辺を地元の夫婦か見学に来た2人連れが散策している。自然と一体になりいい時代だな、と感じた。でも西暦1500年ごろは何人もの武将や兵が命を張って闘っていた戦場の、その址であることは事実だ。

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御前曲輪は本丸の詰にあり、城は精神的な中心であった、西南の角に物見・戦闘指揮のための櫓があり、その下は石垣で固められている。落城の際、長野業盛以下が自刀した持仏堂があつたと伝えられている。井戸は昭和2年に発見された。御前曲輪西側の堀に架かっている木橋を渡った。

2005年の発掘調査では、ここから間口・奥行ともに3.1mの門跡が確認された。6つの礎石が全て残り、主柱2本を4本の控柱で支える四脚門と考えられるそうだ。門の雨落溝には156個の石塔の部材が用いられている。これを整然と並べ格調高く整備された門です。

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御前曲輪井戸は、昭和2年(1927)年8月15日豪雨のため一部地盤が沈下したのがきっかけで確認された。深さ20mの底から長野氏累代(るいだい)の墓石が多数掘り出された。恥ずかしいがこんなに大きい井戸は見たことがない。

三の丸のスペースでは、今でも木と木が鎧を着て日本刀でやりあっているように見えるのは私だけでしょうか? 城中の石垣で比較的良く残っているのはこの辺りだ。三の丸は二の丸の外にある郭である。入り口の三の丸門には、両側の石垣の上を渡した櫓がありその下は通路であった。

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鍛冶曲輪(かじくるわ)の石垣。鍛冶場のあった所で中世の大きな城にはよく見られ、ここで武具などを製作、修理した。このような石垣は、城内各所に見られる。虎韜門(ことうもん)、やっと搦手(からめて)城の裏門から箕輪城大手虎韜門口に出た。

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箕輪城の見所は、まだまだいっぱいあった。まさかこんなに時間が必要だとは思わなかった。山の中の薄暗い迷路のような箕輪城から、やっと見慣れた景色赤城山が私の目の前に広がった。西暦1500年から現在に生き返ったようで、気がつくと私の喉がからからだ。お城を散策してこんなに心地よく疲れたのは初めてだ。

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追伸・・・箕輪城の下見だけでこんなに時間を取ってしまいましたので、本番の箕輪城まつりは次にさせて下さい。

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小板橋伸俊(アンクルサム/群馬県安中市松井田町)

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posted by furainozasshi at 16:29| 中山道の釣り旅