黄色いソフトボール
お店の入り口の鈴がカランコロン、カランコロンと急き立てるように鳴った。慌ててバックヤードから(コタツなんですけどね)立ち上がる。あれ、女の人の声だ、こんにちはいつもお世話になっています。
あ〜、なんだ。なんだなんていうと怒られちゃうけど保険の集金ね。女性のご来客は少ないのでなかなか声を覚えられなくてごめんなさいね。やだ〜ん、小板橋さんは。少ないのなら覚えてよ。わりぃわりぃ、すぐお金持ってくるから待っててね。
金魚の絵のティッシュペーパーを1組、いつものようにサービスしてくれた。小板橋さんに見せたい物があるんです。彼女がゆっくり開いた両手の中に、小さめのソフトボールがあった。
3年前、JAPAN CAP国際女子ソフトボール大会へ行った。試合の1回の表と裏にそれぞれの国の選手が自分のサインをしたソフトボールを観客席に投げ込んでくれるというサービスがある。1回の表、オーストラリアの選手が黄色のソフトボールを観客席へ投げ込み始めた。
みんなが投げられたボールを追いかけて右往左往しているなか、一人の小学生だけがオーストラリア選手に対して背中を向け、落ちているボールを自分のバックに取るというよりは拾うだけで、ほかの大人や子供が1個拾う間に2個目をゲットしている。3個目も拾った。
ほとんどの人がサイン入りのソフトボールを取ることができなかった。大の大人が苦笑いのような表情を浮かべて、さ〜さ、試合だ、試合と自分の席に急いだ。そんななか、一番最後にあの小学生が左手に1球、右手に2球を持って、どんなサインかなと覗き込むように、また誇らしげに私の前を大きいバックを右肩に吊るして通りすぎていった。
と、保険の集金のお姉さんにそんな話をしたことがあった。
そうしたら、お姉さんの中学生の子どもがソフトボール部で、次の年のJAPAN CAP国際女子ソフトボール大会へ一緒に行ったんだそうだ。3個拾った小学生の話をして聞かせたら真似をして、見事オーストラリア選手の投げた黄色いソフトボールをゲットできたそうだ。
だから、小板橋さんにどうしてもお礼を言いたくて、オーストラリアの選手のサイン入りソフトボールも観てもらおうと、持ってきたんです。それはどうもどうも、私もものすごく嬉しいです。
じゃあ悪いんだけど、そのソフトボールをデジカメで撮らせてくれる? こんなことはめったにないからね。と私がマットの上のソフトボールをカチャカッヤと撮っているといつしか集金のお姉さんも、娘さんの母親の表情になっていた。
娘さんが拾った黄色いソフトボールは、普段は茶ダンスの上にいつでもだれでも見られるように、鎮座ましましているそうだ。
2球目のボールのお話
二番目の姉から電話があり、いいものを見に来ないか、と言う。そんなにいいものってもったいぶらないで、何だか教えてくれよ。じつは姉の夫が、横浜スタジアムのDNA対阪神戦で、筒香選手がレフトスタンドに投げ込んだボールをゲットしたというのだ。
横浜スタジアムでは、以前の観戦時にこんな話がある。試合が終わる少し前、もう帰ろうと姉夫婦で通路の階段を降りる途中、ライトの選手がスタンドに投げ込んだボールが通路に飛び込んで、そのボールが何と姉の左足のかかとにあたった。痛くはなかったそうだが、ボールが階段をポンポン弾んでコロコロ、コ〜ロコロ。
その時、姉の上の方からものすごい勢いで青い人影が出たと思ったら、ひょいとそのボールをつかんで、疾風のように去って行ってしまった。
私が想像するに、姉はフライフィッシングはしないが、姉は碓氷川で尺ヤマメをもう少しで釣りあげるところが、スルリと両手から逃げていってしまった気持ちではなかったか。
兄貴の家にはちょっとした棚があり、そこに硬球が1球置いてあった。もしかしてこれかなとちょっと興奮した。さっそく触らせてもらった。筒香選手の手が触ったであろう感触も微妙に感じながら、手のひらの中でボールをこねこねした。子供がお父さんからおとぎ話でも聞くような世界に入り込んでいた。
その日、8回の裏に練習用のボールを筒香選手がレフトスタンドに投げ込んでくれたんだそうだ。ボールが何回かどこかへぶつかって、なんと幸運にも兄貴のナップザックの上に飛び込んで、跳ねることなく、身動きしなかった。
その日は球場の間違いでレフト側の席に移されたし、阪神タイガースに大差で負けているしと、なんとなくモヤモヤしていたら、試合の最後の方でこんな嬉しいことが待っているとは信じられないと話していた。近くにいた女性にそのボールを写真に撮っていいですかといわれて、どうぞと撮らせたんだよと、嬉しそうに話してくれた。
私の手の中の硬球には、日付とBxTの文字がブルーの色で書いてあった。
3球目の話
お店から歩いて5分もしないところに、地元の高校がある。私はその高校の野球部のグランドの前を通る時、一つの心配ごとがある。野球部の選手の人数である。今年は9人いるかな?
あれ、7人しかいない。グラウンドを見晴らせる近くの金比羅山へ登って、マッチ棒の先のような野球選手の人数を数えたこともある。全部で12人いた。やれやれ。
特にドキドキするのが秋である。グラウンドで練習をしている人数が4人とか5人の時がある。3年生が抜けると2年と1年生だけの練習になる。おいおい、来年は4人以上野球選手を確保できるのかい。とても気になる。最近は野球部員が足りなくて、3校が合同で1チームを作ったりする。しかし合同練習はほとんどできない。
グラウンドと道路を挟んだ同級生のM子ちゃんちの土手に、白いボールが突きささっている。見ると「群馬県高校野球連盟使用球」と文字が書いてある。
試合のときの、ホームランボールだろうな。人数も少ないので、ホームランボールをここまで拾いに来なかったのだろうな。高校野球のホームランボールは貰えるのか分からないが、プロ野球はもらえる。自宅のタンスの上に置いてある。
さて、去年のセ・パ交流戦で、横浜対日本ハム戦が横浜スタジアムで行われた。ピッチャーの大谷は観られなかったが9回表のバッターの大谷を観ることが出来た。その日一番の盛り上がりだった。横浜なのにスタジアム全体が拍手喝采だった。
結局空振り三振だったが、大谷選手は遠くからでも、後光がピカピカ光って見えた。
大谷選手が今年メジャーリーグで記録を次から次と塗り替えて、日本中が大騒ぎになっている。マンガをはるかに超えている。でも、いつか人間だから、今の逆になることもあるだろう。
その時に、私は少なくとも手のひらを返すようなことはしないぞ。