私の母親がまだ生きていたころ、碓氷峠の方に私から五代前の先祖にあたる五十貝莎堂の書いた碑があるよとは聴いていたが、つい4〜5年前までは、私を含めてだれも興味を示す者はなかった。
時は流れて、ひょんなことから「小板橋さんの先祖なら私が案内してあげますよ」という人が現れた。
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大げさに聞こえたら申し訳ないが、五十貝莎堂は、弘化三年(1846)の江戸時代後期、今から171年前に今の安中市原市に生れた人で、大正12年まで生きていた。あれ、案外江戸時代って近いんだな? 江戸時代ってはるか昔の時代だと思っていた。
案内してくれた人は、世が世なら凄い家の人だ。莎堂が直接お伺いして書などを書いたという。いそがしいのに車で案内してくださった。
碓氷峠を2台の車でドンドン上がっていくと、途中で左に細い道に入り、左側に細い河が流れている。少し河にそって行くと右側に実物大の牛が横たわっている(石でできているらしい)。
さすがにここまで来ると、細い道の角々に古そうな大小の道祖神が、ひっそりとこの土地に同化して佇んでいる。さっきの牛の像にははっとさせられましたがね。
車が3台ぐらい止められる所があり、そこに車を止めさせてもらった。大きい家と家の間に細い小道がある。いきなりわたしの首に重心がかかり、頭の重さが後に引っ張られ、あごが前に出た状態で立ち止まったまましばらくいると、案内人さんが「ここが莎堂さんの石碑がある神社ですよ」と言う。
その言葉に促されてゆっくり歩を進めた。急な古そうな石段を前に、もう一度首が痛くなるほどに神社全体を見上げる私がいた。「その右側の石碑がそうです。」
大きい灯篭のその横に、高さ2m10cm、横90cmの堂々たる碑(いしぶみ)だ。私はいきなりの御対面で無意識のうちに手すりを左手が強く握りしめていた。
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階段の途中の石の囲いの中には、「佐藤監物翁碑」が少し苔むしてひっそりと立っていた。
全部漢字で何百という数の文字が書いてある。撰は文章を作った人、書は字を書いた人、間に併とある時は、両方同じ人が書いたことになる。すぐに左下を見ると、莎堂五十貝富と書いてある。
物凄くオーバーないい方をすると、申し訳ないが私は五十貝富太郎(莎堂)に巡りあうために生れて来たのではないかと、最近思っている。大変恵まれていることに、案内人さんがこの石碑を自分で読み下してあるということで、あとでそのコピーを頂けることになった。案内人さんとはそこで分かれた。私は案内人さんの車が見えなくなるまで手を振り続けた。
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どうしてこんなことを書いたかというと、碑の中に六男作蔵は安中城主井伊兵部頭出仕後井伊氏が江州彦根移封に及び井伊氏に随いて用人として禄四百五十石を賜う≠ニ書いてある。NHK大河ドラマの女城主直虎は、安中と色々関係が深いことから、歴史好きには今がタイムリーでプチ盛り上がりを見せている。安政遠足侍マラソンと繋がって、直虎の仮装をしたランナーが何人走ってくるか楽しみだ。
ここのところの大河ドラマは、前回、前々回、今回と、次の西郷隆盛(?)でも、石碑や莎堂との関係がありそうだ。江戸後期、明治、大正とそれぞれ自分でも一番興味がある時代なので、莎堂の関係でどんどんタイムトンネルの中に迷い込んでいる。
下の写真は、許可をとって写させていただいた佐藤監物の石碑の拓本です。