2010年06月21日

アユとクロスオーストリッチ

アユとクロスオーストリッチ
                
入間川のアユ釣り

 入間川のアユの友釣りが解禁したので、さて釣れているのかなと見てまわった。
入間川は埼玉県南西部の飯能市から川越市に至る一級河川。人口密集地を流れているのでヤマベ釣りや水遊びの川としての印象が強いが、秩父地域に隣接する最上流の名栗地区では小さいながらもイワナが釣れるので、まだまだ捨てたものではない。雑誌の常套句的に言えば「首都圏に残る幻の魚の棲む清冽なながれ」「都市住民のオアシス」となる。
 放流されているアユは海産と人工産の混合。海産と言うと、海からの天然遡上と思われそうだが、実際は荒川に上ってきた稚アユをある堰で捕まえ、県内の施設で飼育したものである。だから、海産の放流数は捕獲作業(投網)の腕しだいとなる。今年は海産三割に対して、人工産が七割の放流比率となった。


 市街地の飯能地区、山間部の原市場地区と下流側から順に見て行って、最後が市街地から車でおよそ20分の名栗地区。
この時期、名栗地区の入間川は二つの異なる顔を持つ。支流有間川をせき止めた有間ダムが、夏季の洪水シーズンに備え、ダムの容量を確保する目的で有間川を通じて湖水を入間川に放水する。だから、合流点から原市場地区付近までの下手では影響で水温が低下し、逆に合流点から上の入間川本流は温かいという逆転現象が放水が止む9月末まで続く。アユ釣り師はこれを知っているから、合流点より上流に陣取るのがシーズンの常だ。
 名栗地区では釣れ盛っていた。見ている間にポンポンと立て続けに引き抜く姿も。ただ、型は14、5センチと小さい。主に釣れているのは海産らしい。ポイントの読みが外れると、解禁日にも関わらずボウズを食らった者もいたと言う。釣りは難しい。腕と勘が合致しないと釣果は望めない。ビキナーズラックなどという現象もあるから余計に混乱する。


 入間川支流の成木川の話。この川の水源は東京都。入間川にはあと少し東に下ると入間市というあたりで交わる里の川で、入間川を長男に例えれば、妹のようなのが成木川だ。
アユの放流数は微少な河川だが、入間川本流からの遡上アユで、一部区間でかなりの魚影が毎年のように見られる。私はそれを今年も確認した。脛ぐらいまでの瀬の中をキラリ、キラリと盛んにひるがえり、ときおり、ピシャンと水面を割って姿を見せる。いいな。これに入道雲が加われば言うことなし。
しかし、成木川のアユ釣りに関して言えば釣り人の間ではまず、話題にのぼらない。理由は水質や風情に欠ける点にあるらしい。
で、思った。誰にも相手にされない純粋無垢な香魚たちの相手をしてやろうではないか。毛鉤師のはしくれとしては、やはりここは毛針で攻めたい。「青ライオン」「お染」は手が出ないから、糸の先に結ぶのはあの「クロスオーストリッチ」。しかもドブ釣り毛鉤を真似て、ゴールドビーズ付きに仕立ててさ。
今シーズン、アユの毛針釣りの解禁は7月1日。生活廃水があろうが、底石がぬるぬるしようが、私はそんなのちっとも気にしないのだ。食べるかどうかは別として。

(小島満也/飯能市)

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2009年09月15日

麦わら帽子の夏

 すだれ越しの朝顔、沸き上がる入道雲、くるりと裏返った軒の夏帽子、鎮守の森の蝉しぐれ。少年の頃の夏の思い出は、どこのシーンをとっても強烈で鮮明だ。まるで、昨日のことのように蘇る。

      ◇

 あの頃、地区の悪がきどもの夏の最大級の遊びは魚捕りだった。ぼくが住む地区には二つの川、I川とN川が南北に隣り合って流れていて、そのうち南側のN川からは灌漑用の、地元で「田堀」と呼ぶ小さな堀が300メートルほど下流の田んぼまで続いていた。そうしたものの位置関係は今ともちろん寸分たがわないが、川の水はもっと透き通っていて、もっともっと冷たかった。だから、いつまでも調子に乗って川で泳いでいたりすると、体がどんどん冷えてきて体温が下がって唇がドドメ色になった。
 ドドメとは桑の実のことで、ぼくの地方では養蚕が盛んだったから、畑という畑のあちこちに桑の木が植えてあった。ドドメは5、6月になると紫色に熟れて食用になる。今はジャム作りなどに珍重されているようだが、当時は珍しくもなんともなく、そこらへんの木の実の一つに過ぎなかった。ぼくらにとっては好物で、紫色の実を見つけるたびに口に放り込んだ。
 大人たちが田植えに備えてN川の水門を開けて田堀に導水すると、ウグイやフナ、ドジョウなどが大量に迷い込んだ。ぼくらはそれを狙った。たまに物好きな親父たちが田堀に繰り出したが、雑魚なんかもちろん眼中になくもっぱらシジミを掘っていた。
 田堀の脇の草つきの畦道には毒々しい体色をしたヤマカガシも潜んでいて、幾度となくびっくりさせらせれた。ヘビとの出合いはいつも衝撃的にやってくる。大抵は人の気配を感じてヘビの方から逃げるが、うっかりふんずけたりすると、裸足でもあったから「ひゃあ」と奇声を発して、1年生も6年生も年齢に関係なく飛び上がった。田舎の子どもだってヘビは恐いのである。ヘビイチゴが生えている場所にはヘビがとぐろを巻いているから注意するんだと上級生から真顔で教えられていたこともあり、草むらの陰に真紅の実が見えたりすると、そのたびに小さな胸がどきりとした。

 昼下がりは、板の間の縁側に敷いた寝ござで午睡だ。昭和30、40年代前半の頃のぼくが住む地区では、まだまだ藁葺き屋根の民家が数多く残っていた。農家だったぼくの家もそうだった。藁葺き住宅は、ブームらしい今の田舎住まいの象徴みたいにもてはやされているが、当時住み心地が良いと感じたことはなかった。普通に雨が漏ったし、雨戸をガタガタ揺らす台風の夜などは不安でたまらなかった。
 土間の柱と梁は、祖父が番をする囲炉裏の煤で黒光りしていた。農業を兼業化したサラリーマンの家の赤いトタン屋根はハイカラな感じがして羨ましかったものだ。
 夏のとある夕暮れ。今夜はナマズを捕りにゆくぞと父親に声をかけられた。養蚕や畑仕事で忙しかった父親とは、ぼくが末っ子ということもあって遊んだことがなかったので、父の突然の誘いにぼくは嬉々とした。母親も行くという。たぶん、両親は40代だったと思う。卓袱台に用意してあった夕飯をかき込んだ。
 連れていかれたその場所は、ぼくら集落の子どもが魚捕りに興じるいつもの田堀ではなくて、その北側の隣接地区の田圃の中のひと跨ぎ程度の小さな用水路だった。ぼくらの田堀とは直線で300メートルも離れていない。用水路は田堀に水を引いているN川に、水門の下流側で流れ込んでいた。
 そんな目と鼻の先に、ぼくらが巡り会う機会などほとんどないナマズが棲息していることを、にわかには信じられなかった。ナマズはぼくらにとって大物である。ぼくは疑念を感じつつも夜陰に乗じての捕獲作戦に興奮した。

 星が瞬いて、聞こえるのはざわざわと間断なく流れる水音とカエルの鳴き声だけ。田んぼが続く先にポツン、ポツンと民家の灯りが見えた。なんだかいけないことをしているような気がして、一段と高揚したのを覚えている。
「これを持って、こう水の中で押さえているんだぞ。父ちゃんがここにくるまで絶対に笊を上げちゃあダメだぞ」。父親に手渡されたのは竹で編んだ直径40センチほどの笊だった。普段、祖母が畑で収穫したトマトやキュウリを入れている笊だ。
 ぼくは腰をかがめ、それを流れをせき止めるように水に沈めた。水面が顔に近付いた。ぐっと水圧がかかった。押さえる両手に力を込めた。顔を上げると5、6メートルほど上流に父と母がいた。土手に放り投げておいた懐中電燈の光が、上流の2人をぼうっと照らし出していた。
 当時、ぼくらの田堀や周辺の用水路は護岸など一切されておらず、開削されたままの状態だった。法面には雑草が繁茂し、そこから水面に垂れた植物や水草の陰は魚の絶好の隠れ場になり、たまに赤腹のイモリが姿を現した。
 上流の両親は縦列になって両岸の縁を地団駄を踏むように、リズミカルな動作でぼくの方に下ってくる。やがて父の体がぼくに密着するぐらいの近さになった時、父の合図があり、ぼくは水の中の笊を持ち上げた。ずしりとした重量感。笊の底でうごめき、絡まり合う複数の黒色の物体。ナマズだった。父の話しは本当だったのだ。ぼくの心は充足感で満たされた。

 その夜、ぼくと両親は月明かりの下、用水路の中を何度も何度も行き来し、そのたびにぼくは感嘆の声を挙げた。こうして捕獲された数十匹に及ぶナマズは翌日、祖母の手によってすべて調理された。家の周囲に香ばしいにおいが漂い続けたが、ただ、残念なことにぼくは、その時のナマズの味を思い出せないでいる。思い出すのは、夜のはじめ頃の両親とぼくのあの用水路での行いだけなのだ。

      ◇

 記憶は断片的ではあるが、振り返ってみると、ナマズ捕りという行為自体は単調なものだけれど、強烈な印象として今も残り、苦労もなしに想起できる。それはやはり夏という灼熱の季節が大いに関与しているといっていいのかも知れない。
 青臭い水田のにおい、穂を揺らす生ぬるい南風、峰の白雲。魚釣りだってそうだ。春先のヤマメ釣りよりも、炎天の河原でのおおらかなイワナ釣りにぼくは心惹かれる。
 しかし、フライフィッシングを始めてからこのかた、脳裏に焼き付く夏が一向に目の前に現れないのはなぜか。腕か。2009年の夏も、何事もなかったように逝く。

小島 満也(埼玉県飯能市)



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2007年08月31日

8月27日 ヒガンバナとスモール

●自宅裏の坂道を下りきったところにA川がある。この辺りのA川の左岸にはサクラの土手があって、秋になると、そのサクラの根元ではヒガンバナが咲く。ヒガンバナは数千株も自生しているから、開花シーズンは河原が艶やかだ。川は橋を挟んで上流側が瀬、下流側はとろっとした大きな渕を作る。渕は昭和40年くらいまでは天然のスケート場になったというが、近年は一度も凍結していない。
●ヤマメ釣りでもと思ったが、こう暑くては骨折り損だろう。ならば、雑魚でもと夕暮れにヒガンバナ群生地の下手で竿を振った。夕焼け空の下で波紋が広がっている。着水と同時に毛鉤に魚が出て、あわせをくれたら寄ってきたのはカワムツだ。雑魚はいい。故郷に帰ったような、不思議と気持ちが和む。
●茜の空色に合わせて、次は16番のオレンジアンドパートリッジだ。時間が流れる。まったりと渕の流れ込みに流していたら、「グン」とあたりがきた。あわてて糸をたぐるが、カワムツやヤマベなんかじゃない、数十倍の引きだ。どんどんたぐり寄せる。スモールだ。雑魚狙いでバスがきたから驚いた。ヒガンバナが咲いて、気温が下がって、河原から川遊びが消えたら、本格的に狙ってやろうと思っている。



報告:毛鉤丸(飯能市在住)
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2007年06月12日

痔と谷川の関係

●20数年来の持病にけりをつけるため、私は一大決心した。で、このゴールデンウィーク明けに専門病院のドアを叩いた。尾籠な話しで誠に恐縮だが、病名は「内痔核」、そして「脱肛」。つまり「痔」。食事中(パソコンしながら食事する人もいないと思うが)の方には申し訳ないが、直腸内に出来た痔核が排便後、肛門の外に飛び出すのである。私はそのたびに体内にそれを押し戻すのだが、しかし、この痔核、押し戻したその場に止まっていないで、小一時間も歩くと、再び外に顔を出すから始末が悪かった。尻の谷間のスーパーボールのような腫れ物で、結果的に私は歩くに歩けない。人気のない場所にそろりそろりと移動し、パンツに手を入れて動脈と静脈などの集合体を元の位置に戻す。だから、釣りに没頭できる時間は本当に少なかった。
●「手術は1時間程度。下半身麻酔ですから痛みはまったくありませんよ」。ドクターの説明を受けながら、私は尋ねた。「ああ、良かった。ですが、術後の排泄がとても痛いと聞いたのですが…」。「あはは、除去した痔核の大きさに比例しますね」。切り取る痔核は肛門の内側だし、その傷のところを排泄物がこすりながらおりてくる。痛くないはずがない。愚問だった。「久しぶりに大きな痔でした」とドクターを言わしめた内痔核は合計4つ。ガラス容器に入れた肉片をうつぶせで手術台にいる私にドクターが見せた。
●入院生活は「ある行為」を除いて快適だった。その気になれば一日中寝ていられるし、黙っていても朝昼晩、食事が出てくる。だらだらしていも誰にも文句を言われない。むしろ、だらだらしていた方が傷の治りが早い。ベッドで過ごすのにラジオが手放せなくなった。
●「ある行為」、つまり食べたら必ずやってくる朝の排出作業が恐怖だった。痛いぞ。ドクターの話がぐるぐると頭の中を駆けめぐった。出そうか、出すまいか。私は意を決して個室に飛び込んだ。草いきれ、太陽で灼けた河原の石ころの匂い、弾ける水泡、水中を一直線に走る影、河畔の森のセミしぐれ…。谷に立つ自分の姿を想像して、やがてやってくる激痛を少しでも紛らわすのだ。便器に座った私は、妄想の世界へと意識を逃避させようと盛んに試みた。が、たちまちのうちに、現実に引き戻された。
●手術から1か月が経過して、違和感は残るけれどもイスにも普通に座れるようになった。排便時の痛みも劇的に改善した。今、洗浄するシャワートイレの水音が私をイワナが潜む谷川へと誘う。現金なものだ。

毛鉤丸(埼玉県飯能市)
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2006年09月26日

Mさんの川

●地元漁協の監視員として何十年も川を見守り続けたMさんが死んだ。Mさんの管轄は自宅周辺のヤマベやアユの中流域。だから、仕事の内容も密漁者に目を光らすような渓流域のそれとは大分様相が違って、もっぱら遊漁料の小銭を徴収するのが主だ。こう書くと緊張感のない監視活動と勘違いされそうだが、遊漁料徴収はいたって厳しく、双眼鏡で釣り人を見つけると、老若男女問わず取り立てた。漁協にとっては頼もしく、釣り人側からしてみれば厄介な存在だった。
●「ああっ、〇〇ちゃんかあ。金はいらねえ。いっぱい釣れよ」。Mさんは僕と川で会うと、けっして金を取ろうとはしなかった。ある晩のこと、Mさんが酔って電話をかけてきた。ろれつが回っていないので聞き取りづらかったが、話しの中身を要約すると「いい大人がタバコ代ほどの遊漁料を出すのを渋る。食べ残した物を河原に放置したまま帰ってしまう。情けない」などというものだった。何だか、こちらの愚行を見透かされているような気がした僕は電話口で頷くだけだった。
●Mさんはその後、自宅風呂場で倒れ、そのまま逝ってしまった。あっけない最期。あの監視の執拗さをもってすれば、もっと頑張れたんじゃないか。スーパーカブに跨ったMさんの姿が浮かんだ。Mさんがどうして電話をかけてきたのか、僕には未だ分からない。深紅のヒガンバナが、Mさんが佇んだ川に今年も咲き揃った。

毛鉤丸(埼玉県飯能市)

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