お店の前でバイクから降りて来て、「すいません、ガン玉ありますか?」と聞いてきた人がいる。ありますけど。こちらです。すいません、もしかしてフライでは無いものに使うのですか?
「プラモデルのバランスをとるため使うんですよ。」
実は最近私は戦艦比叡を探しているのですがなかなか見つからないんですよ、と私が言うと、
「戦艦比叡はちょっと造りが違うところがあるので、今はほとんど造らないのではないですか。」
と教えてくれた。そうか、だから探してもないのですかね。するとお客さんが、
「どうして戦艦比叡を探しているのですか。」
と聞いてきた。
実は私の父が海軍で比叡に乗っていた。俺は御召艦に4回も乗っているんだぞと話を聞いていたのですが、その父も24年前に逝ってしまいました。裏の小屋から「昭和十一年度 軍艦比叡特別任務記念寫眞帖」なるものが出てきて、甲板に何百人か分からないが針の穴ぐらいの顔、顔、顔が、ずら〜りお城の石垣のように上へ上へと連なっている。ほんとにこの中に父がいるのかと名簿の覧を探すと、何と小板橋の名字がもう一人いた。地元しかない名字だからもう一人地元から行った人がいたのかもしれない。年のせいか、最近は父をはじめ先祖のことが否応なしに気になり、色々と辿り始めてとまらない自分が何だか怖い感じがするんです。と話した。
するとお客さんが
「昔、比叡のプラ模型を買ってあるハズだから、久しぶりに組み立ててみましょう」
と言ってくださった。え〜、いいんですか、いくらで作って貰えるのですか。
「お父さんの供養のためになのでタダで造りますよ」
と言う。そういう訳にはいきませんけど、このお客さんはプラ模型も造り、歴史も好きらしいが、ちょっとやそっとではない感がある。お客さんは、
「私の造ったプラモデルが、安中のプラ模型屋さんに置いてありますから時間でもあったら寄って見て下さい。若い人が店主をやっていますけど、そこのおばあさんは小板橋さんと同じぐらいの年齢だろうから多分話が合うと思いますよ。」
私の脳味噌はもう行ってみたくてみたくて、次の日に猛ダッシュした。お客さんの作品がガラスケースに入ってディスプレイしてあった。お屋敷のようでコンパクトによく出来ていた。お店の若い人に比叡のことを聞くと、近いうちに何と比叡のプラモデルが出ると言う。「昔の方がいろんな所が細かく出来ていると思いますけどね。と言っていた。
「今度、プラ模型の展示会を前橋の臨江閣でやります。パンフレットを差し上げますからよかったどうぞ。プラ模型でテレビチャンピオンになった人が群馬に住んでいて、その人の作品も展示されるようです。メーカーの人も来るそうですよ。」
へー、また違う世界に迷い込みそうだ。臨江閣へはずっと以前から行ってみたかったのだ。
「臨江閣は近代和風の木造建築で、全体は本館・別館・茶室から成り、本館と茶室は県指定、別館は市指定の重要文化財となっています。本館は明治17年9月、当時の群馬県令・楫取素彦(かとり もとひこ)や市内の有志らの協力と募金により迎賓館として建てられました。また茶室はわびに徹した草庵茶室で、京都の宮大工今井源兵衛によって明治17年11月に完成しました。別館は明治43年一府十四県連合共進会の貴賓館として建てられた書院風建築です。」(臨江閣のパンフレットから)
入口から正面に大きい木造二階建ての建物が兜をかぶっている。私を今にも呑みこみそうな勢いを感じさせる、堂々たる木造建築だ。やっぱり日本は木造の建物が一番よく似合うなと、思ったらここは別館で、通路を右側に行った先の建物が臨江閣だそうだ。行く部屋、行く部屋の天井に目が行ってしまう。シャンデリアとは違うが、和の落ち着いたサッパリした照明のデザインに明治の職人さんの渋いセンスを感じる。畳の縁(へり)も目立たず畳の色に同化していて雰囲気を壊さない。
昔の本陣は殿様が座るところは一段高くなっていていかにも身分の違いを見せつけている感があるが、こちらは床の間以外は全部高さが同じで、障子が普通の家の二倍の大きさに見える。臨江閣は迎賓館ということではあるが、身分でどうのという時代は終わったということを、楫取素彦さんはよく分かっていた人だと思う。
いよいよ、プラ模型の展示会場の別館に向かった。大河ドラマのお二人のパネルがお出迎えしてくれた。こんな立派な前橋市指定重要文化財の建物の中で、プラ模型の展示会を出来るということは、楫取素彦さんの分け隔てない教育の真髄が脈々と群馬県人に浸透しているような感覚をもった。立派な階段を一歩ずつ上がっていくと、天井の高い180畳の大広間にプラ模型のオンパレードだった。
そのまま、近くの群馬県庁昭和庁舎で「初代県令・素彦と文ぐんま花燃ゆ大河ドラマ館」というのをやっているというので、見に行った。歩きながら途中、楫取素彦の碑や前橋城跡の碑なども見ながら昭和庁舎に着いた。マネキンの楫取素彦さんが礼装で、文さんは鹿鳴館で素彦とダンスを踊った時のドレスのようだ。衣装を着せてもらい、写真を撮ってもらった。私の人生でこんなことがあるなんて信じられない。
中島長吉さんという方は、県令楫取素彦さんの二男・道明らとともに台湾の教育に尽力した六氏先生のうちの一人です。1896(明治29)年1月1日、25歳のとき台北士林学校でゲリラに暗殺されました。楫取さんは自分と同じく、息子を亡くした境遇になった長吉の両親を弔問し、漢詩を贈って慰めた。そのことが「ぐんま花燃ゆ大河ドラマ館」で大きなパネルになって紹介されていた。
たいへん個人的なことで恐縮ですが、その中島長吉の碑の書は、書家の五十貝莎堂(いそがいさどう)が書いたものです。莎堂なる人物を知る人はいないと思いますが、私は莎堂のひひ孫です。私はパネルの前で恥ずかしくて動けなかった。
一ヶ月後の夕方、あのお客さんが奥さんとバイクで一緒にお店に来てくれた。
「小板橋さん。戦艦比叡ができ上がりましたよ。」
と完成品を持って来てくれた。
「風呂場で動かす事もできますよ。」
もったいないから風呂場では動かしませんと言うと、電池を抜いてくれた。何というか分からないが、海の上でも離着陸できる小さい飛行機を別に探して付けてくれた。へ〜、こんなふうに船から上げ下げするんだ。その他に比叡の写真を何枚も持って来てくれて、奥さんから深谷ネギもいただいて、暗くて寒い中、お二人はニコニコしながらヘルメットをかぶりバイクで帰っていった。私はお店の前に出てバイクが見えなくなるまで深々と頭を下げお見送りをすることしかできなかった。
それから毎日、比叡をこたつのテーブルの上に置き、今日まで見飽きることがない。人間の出会いって不思議ですね。小さいガン玉からお互いに歴史好きなことが分かり、プラ模型の話になり、おかげで前から気になっていた臨江閣を見ることもできた。
「ぐんま花燃ゆ大河ドラマ館」で、莎堂が楫取素彦さんと中島長吉の碑の書で関係していたことを知った。お客さんがガン玉1袋20円を買いに来なければ、今回の話は全部なかったことになる。やはり何でも自分が気になることは動いてみるものだ。自分のはかない人生を、何倍も何十倍も充実させたものにできる。
よい出会いは、素晴しい贈り物である。
石碑は上信越自動車道松井田妙義ICから車で約5分のところにあります。バンブーロッド・ビルダーの白戸さんと一緒に碑を見に行った時の写真です。
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小板橋伸俊(アンクルサム/群馬県安中市松井田町)
※「マルタの雑誌」は季刊『フライの雑誌』読者が対象のweb投稿企画です。
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