2016年04月17日

プラ模型と臨江閣とぐんま花燃ゆ大河ドラマ館

お店の前でバイクから降りて来て、「すいません、ガン玉ありますか?」と聞いてきた人がいる。ありますけど。こちらです。すいません、もしかしてフライでは無いものに使うのですか?

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「プラモデルのバランスをとるため使うんですよ。」

実は最近私は戦艦比叡を探しているのですがなかなか見つからないんですよ、と私が言うと、

「戦艦比叡はちょっと造りが違うところがあるので、今はほとんど造らないのではないですか。」

と教えてくれた。そうか、だから探してもないのですかね。するとお客さんが、

「どうして戦艦比叡を探しているのですか。」

と聞いてきた。

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実は私の父が海軍で比叡に乗っていた。俺は御召艦に4回も乗っているんだぞと話を聞いていたのですが、その父も24年前に逝ってしまいました。裏の小屋から「昭和十一年度 軍艦比叡特別任務記念寫眞帖」なるものが出てきて、甲板に何百人か分からないが針の穴ぐらいの顔、顔、顔が、ずら〜りお城の石垣のように上へ上へと連なっている。ほんとにこの中に父がいるのかと名簿の覧を探すと、何と小板橋の名字がもう一人いた。地元しかない名字だからもう一人地元から行った人がいたのかもしれない。年のせいか、最近は父をはじめ先祖のことが否応なしに気になり、色々と辿り始めてとまらない自分が何だか怖い感じがするんです。と話した。

するとお客さんが

「昔、比叡のプラ模型を買ってあるハズだから、久しぶりに組み立ててみましょう」

と言ってくださった。え〜、いいんですか、いくらで作って貰えるのですか。

「お父さんの供養のためになのでタダで造りますよ」

と言う。そういう訳にはいきませんけど、このお客さんはプラ模型も造り、歴史も好きらしいが、ちょっとやそっとではない感がある。お客さんは、

「私の造ったプラモデルが、安中のプラ模型屋さんに置いてありますから時間でもあったら寄って見て下さい。若い人が店主をやっていますけど、そこのおばあさんは小板橋さんと同じぐらいの年齢だろうから多分話が合うと思いますよ。」

私の脳味噌はもう行ってみたくてみたくて、次の日に猛ダッシュした。お客さんの作品がガラスケースに入ってディスプレイしてあった。お屋敷のようでコンパクトによく出来ていた。お店の若い人に比叡のことを聞くと、近いうちに何と比叡のプラモデルが出ると言う。「昔の方がいろんな所が細かく出来ていると思いますけどね。と言っていた。

「今度、プラ模型の展示会を前橋の臨江閣でやります。パンフレットを差し上げますからよかったどうぞ。プラ模型でテレビチャンピオンになった人が群馬に住んでいて、その人の作品も展示されるようです。メーカーの人も来るそうですよ。」

へー、また違う世界に迷い込みそうだ。臨江閣へはずっと以前から行ってみたかったのだ。


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「臨江閣は近代和風の木造建築で、全体は本館・別館・茶室から成り、本館と茶室は県指定、別館は市指定の重要文化財となっています。本館は明治17年9月、当時の群馬県令・楫取素彦(かとり もとひこ)や市内の有志らの協力と募金により迎賓館として建てられました。また茶室はわびに徹した草庵茶室で、京都の宮大工今井源兵衛によって明治17年11月に完成しました。別館は明治43年一府十四県連合共進会の貴賓館として建てられた書院風建築です。」(臨江閣のパンフレットから)

入口から正面に大きい木造二階建ての建物が兜をかぶっている。私を今にも呑みこみそうな勢いを感じさせる、堂々たる木造建築だ。やっぱり日本は木造の建物が一番よく似合うなと、思ったらここは別館で、通路を右側に行った先の建物が臨江閣だそうだ。行く部屋、行く部屋の天井に目が行ってしまう。シャンデリアとは違うが、和の落ち着いたサッパリした照明のデザインに明治の職人さんの渋いセンスを感じる。畳の縁(へり)も目立たず畳の色に同化していて雰囲気を壊さない。

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昔の本陣は殿様が座るところは一段高くなっていていかにも身分の違いを見せつけている感があるが、こちらは床の間以外は全部高さが同じで、障子が普通の家の二倍の大きさに見える。臨江閣は迎賓館ということではあるが、身分でどうのという時代は終わったということを、楫取素彦さんはよく分かっていた人だと思う。

いよいよ、プラ模型の展示会場の別館に向かった。大河ドラマのお二人のパネルがお出迎えしてくれた。こんな立派な前橋市指定重要文化財の建物の中で、プラ模型の展示会を出来るということは、楫取素彦さんの分け隔てない教育の真髄が脈々と群馬県人に浸透しているような感覚をもった。立派な階段を一歩ずつ上がっていくと、天井の高い180畳の大広間にプラ模型のオンパレードだった。

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そのまま、近くの群馬県庁昭和庁舎で「初代県令・素彦と文ぐんま花燃ゆ大河ドラマ館」というのをやっているというので、見に行った。歩きながら途中、楫取素彦の碑や前橋城跡の碑なども見ながら昭和庁舎に着いた。マネキンの楫取素彦さんが礼装で、文さんは鹿鳴館で素彦とダンスを踊った時のドレスのようだ。衣装を着せてもらい、写真を撮ってもらった。私の人生でこんなことがあるなんて信じられない。

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中島長吉さんという方は、県令楫取素彦さんの二男・道明らとともに台湾の教育に尽力した六氏先生のうちの一人です。1896(明治29)年1月1日、25歳のとき台北士林学校でゲリラに暗殺されました。楫取さんは自分と同じく、息子を亡くした境遇になった長吉の両親を弔問し、漢詩を贈って慰めた。そのことが「ぐんま花燃ゆ大河ドラマ館」で大きなパネルになって紹介されていた。

たいへん個人的なことで恐縮ですが、その中島長吉の碑の書は、書家の五十貝莎堂(いそがいさどう)が書いたものです。莎堂なる人物を知る人はいないと思いますが、私は莎堂のひひ孫です。私はパネルの前で恥ずかしくて動けなかった。

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一ヶ月後の夕方、あのお客さんが奥さんとバイクで一緒にお店に来てくれた。

「小板橋さん。戦艦比叡ができ上がりましたよ。」

と完成品を持って来てくれた。

「風呂場で動かす事もできますよ。」

もったいないから風呂場では動かしませんと言うと、電池を抜いてくれた。何というか分からないが、海の上でも離着陸できる小さい飛行機を別に探して付けてくれた。へ〜、こんなふうに船から上げ下げするんだ。その他に比叡の写真を何枚も持って来てくれて、奥さんから深谷ネギもいただいて、暗くて寒い中、お二人はニコニコしながらヘルメットをかぶりバイクで帰っていった。私はお店の前に出てバイクが見えなくなるまで深々と頭を下げお見送りをすることしかできなかった。

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それから毎日、比叡をこたつのテーブルの上に置き、今日まで見飽きることがない。人間の出会いって不思議ですね。小さいガン玉からお互いに歴史好きなことが分かり、プラ模型の話になり、おかげで前から気になっていた臨江閣を見ることもできた。

「ぐんま花燃ゆ大河ドラマ館」で、莎堂が楫取素彦さんと中島長吉の碑の書で関係していたことを知った。お客さんがガン玉1袋20円を買いに来なければ、今回の話は全部なかったことになる。やはり何でも自分が気になることは動いてみるものだ。自分のはかない人生を、何倍も何十倍も充実させたものにできる。

よい出会いは、素晴しい贈り物である。

石碑は上信越自動車道松井田妙義ICから車で約5分のところにあります。バンブーロッド・ビルダーの白戸さんと一緒に碑を見に行った時の写真です。

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小板橋伸俊(アンクルサム/群馬県安中市松井田町)

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2016年02月25日

第13回 箕輪城まつり 「今、蘇る 戦国合戦絵巻」(2)

第13回箕輪城まつり 後篇

今日は西暦1500年ごろにタイムスリップすると思うと、いい年をしてハズカシイが早起きをしてしまった。空は晴れている。雨男としてはウキウキ感倍増。一人でテンション上がりっぱなしで林家三平さんではないがどうもすいません。

駐車場に着くと警備員の人がこちらにと指図する所に車を止めた。今日は長丁場になると思いペットボトルとお手製のサンドイッチをナップザックに押しこんでいざ出陣。二の丸に係員がいたので、武者行列はどちらの方向から上がって来るのですかと係員に聴いた。近くにいた人が、「おいおい、鎧を着た武将が軽トラで運転してくるぞ。こんな光景はめったに見られねいぞ〜。」

私の背後を軽トラが走り去る気配を感じた時は、ことすでにおそし。今日最高のジャッターチャンスだったかも? 自分の脳味噌に、これから、これからと慰められて本丸へ歩を進めた。

入場門南側、東と西それに北側の東と西に1門づつ、計4門真黒に塗られた大砲が、木車の上にドカーンと鎮座している。それなりの大きさだ。でもただの丸太じゃないかと、私の脳味噌は馬鹿にしている感があった。西側には、いかにもお偉いさんが腰を下ろす床几(陣中・狩り場などで使う、あしの交差した腰掛け)がずら〜りと、並んでいる。衝立には長野氏の家紋である扇の紋がずら〜り、と並んでいる。その後ろには、武田氏の武田菱と織田氏の五つ木瓜と長野氏の扇、北条氏の北条鱗と井伊氏の彦根橘の家紋が描かれた旗差し物が、渋く上州のからっ風に舞っている。

西暦1500年前もこんなふうに、家紋の描かれた旗差し物の、箕輪城攻防戦の始まる前も舞っていたのだろうか?

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東側に幾張りもテントが連なっている。その中に何人も座れる木の長椅子がこれでもかとばかりに、ずら〜りと置いてある。スタッフの人に始まる時間を聞くと、箕輪城まつりの黄色い総合プログラムを下さった。案内図もあるのでわたしは武者行列の出発地点の箕郷支所へと歩き出した。

人のザワザワ感を感じたと思ったら、箕郷支所に着いた。鎧兜の武将や足軽、子供たちは忍者の出で立ち、それに修験者など。その中で和弓礼射が始まって居た。色々なスポーツや武芸などあるが、和弓には人間的にも落ちつき払った品のある人物が多いような気がする。それに若くてベッピンさんがいる。

やあ、やあ間に合ってよかった。火縄銃礼射が始まったが、オドロイタなんてもんじゃない、何につて火縄銃の音にどどどどか〜ん。何事が起ったかと思った。森重流火縄銃の演舞だ。旧下田邸書院及び庭園の前でに、火縄銃の真っ白い噴煙が松の木にからみつくように、少しとどまるようにして空に消えていく。私は火縄銃の音はパーンぐらいにしか思っていなかった。何事にも通じることだが本物を体感することだ。

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テレビで戦国時代の合戦に火縄銃が何挺も並んで連射する映像を見るが、所詮テレビの中の音だ。本物の火縄銃の音と迫力は、火縄銃一挺の足もとにも及ばない。戦国武将も命がかかっているとはいえ、火縄銃の迫力と音には怯んだのではないか。

演舞するのは全員で八人だ。その中の隊長がカッコイイ。空砲とはいえ火薬を使っているので、何かあってはいけないとたえず全体に気配りをしている。一人がおかしいという時は駆け付け、瞬時に対処して、撃たせる。それでも駄目な時は隊長の銃を差し出して、撃たせる。俺なんかそういうのって痺れて感激しちゃうんだよな。オイオイ感動ばかりしていて、まだ武者行列も箕輪城攻防戦も始まっていないじゃないか。

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武者行列が始まった。刀や槍の先は柔らかそうな素材で出来ているようだ。鎧兜を借りると返す時にそれに付属した下着をクリーニングして返さないと駄目らしく、すぐ1万円ぐらい掛かってしまうらしい。どうせ自分が大好きなことだからお金を出して鎧兜を作ってしまった方が安いという人たちが、結構いるらしい。ちなみに私が聴いた人は、一式ご、ご、50万円だそうだ。群馬県にも鎧や兜を作っている所があるそうだ。フライフイッシングの趣味って安いもんですね。

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鎧や兜がぶつかって、ガシャン、ガシャンと金属音がする。私の目にとびこんでくる鎧兜の武者は皆さん俺が大将だといわんばかりの五十万円コースだ。兜鎧で一人14キロから20キロはあるそうだから、大迫力だ。足軽などはフエルト素材風だ。

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武者行列コースは勘定町(箕郷支所)⇒四つ谷⇒鍛冶町⇒本町⇒矢原宿と進む。最近都会の方では、町名が昔の町名ではなく、近代的な町名になっていると聞く。私の暮らしている松井田は中山道の宿場町だ。ちょっと優越感を覚えることもあった。現在の箕郷町の武者行列コースは素晴しい蔵がいくつもあり、時代劇に出て来るようだ。きちんとお金をかけて綺麗にしている。松井田宿には今はこんな建物は何軒もない。さみしい限りだ。箕郷町は長野氏から現在まで途切れることなく文武両道を貫いている。

足軽らしき人たちが背中に背負っている赤と青の旗が、ヨットの帆がピーンと張っているように見える。サメの背びれのようで、戦闘態勢全開に見える。大河ドラマの真田丸に出てくる武田氏、織田氏、滝川一益公、北条氏に真田の六文銭の旗も靡いていた。真田の領地は群馬県沼田市にある。

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いよいよ箕輪城の虎韜門に武者行列が到着した。山城の鍛冶曲輪から山登りが始まった。二の丸に到着。陣太鼓の勇ましい音がガンガン本丸から聞こえて来る。お祭りで聴く太鼓の音ではない。なにか得体のしれない、人間の神経を麻痺させて、戦いに没入させてしまう魔力のある音楽に聞こえた。音楽は心を癒してくれるものだが、時と場合によっては大変恐ろしい音にもなるんだと、私の脳味噌は察知したようだ。

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本丸に到着。武者行列は太鼓の音の中と大観客の前を堂々と行進した。法螺貝の音を合図に演武「箕輪武士」「獅子舞奉納」「新陰流の演武」「森重流火縄銃演武」などアトラクションが行なわれた。ステージにはお偉いさんや姫などがずらりと腰掛けている。

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最初に鎮魂祭箕輪城に関わった諸武将への慰霊の神事があり、南に長野軍、北に武田軍に分かれた。朝に見た、あの黒塗りの木の大砲が火を噴いた。火薬玉が何と私の右手拳ほどの大きさがある。写真の煙の凄さからどのくらいの迫力かお察し下さい。それが四か所、ほぼ同時に爆音をとどろかせるのだから空砲とはいえビックリドンだ。木の大砲だと馬鹿にしていた所があったがほんとに恐れ入りました。

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長野軍が青色で、武田軍が赤色に分かれているようだ。大人の長野軍の武士と武田軍の武士が戦う時は、双方が顔を見合わせるとどちらもほんとに負けないぞという顔をしている。しかし暫くすると、俺は武田軍だからここで負けないといけないんだ、とばかりに斬られて、倒れこむ。どうも子供たちはほとんど長野軍で、武田軍を斬る役回りのようだ。

広い戦場で百人以上が戦う訳だから普通は何だか訳が分からなくなるが、よく考えられていて、南側に高い櫓が造られていて、そこにプロの講談師がいる。現在の合戦状況を手に取るように喋ってくれるので、どんな合戦になっているか、まるでテレビでサッカーの生中継を見ているように、自分の贔屓のチームが優勢か劣勢なのかが良く分かる。大変面白く見ることができた。

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中ほどで、武田義信対藤井友忠の一騎打ちがあり、講談師が我こそは武田義信であるとお互いに名乗り、それから一対一で戦場狭しと、本気で戦ってみせた。刀や槍を本気で振りまわすので、怪我をしないかひやひやである。その証拠に槍の柄がボキと音をたてて折れた。その瞬間、観客席の皆さんが「大丈夫か」と身を乗り出した。最後はお約束なのか、お互いに地面に転がりあって、相手に止めを刺して勝負あった。講談師もうまく話してくれるので、観客席からもヤンヤヤンヤの大喝さいが湧き起った。場を盛り上げるためにあの大砲が四隅でドーカン、ドカーン、ドッカーンと、白い煙に覆われて戦場さながらの雰囲気で、私の魂はその場に浮遊した様な感覚に陥っていた。

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戦いの後、武田軍が撤退し長野軍が本丸中央で「勝ち鬨」をあげて、攻防戦は終了した。閉会の挨拶が終わり、その後手作り甲冑の披露を兼ねた写真撮影会が行われた。皆さん武将はどう見ても50万円ではきかないお値段かもしれない。皆さん大変凝っている。まだ合戦の余韻が残っているせいか甲冑の写真撮影会ではなく、西暦1500年前の武将と相対しているようだ。

いい世の中だ。

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追伸1  私の町の某金融機関に『フライの雑誌』を置かせてもらっている。しかし実態は奥様方が多いせいか、雑誌置き場ではファッション誌や料理本、黄色やオレンジなどの色の雑誌が幅を利かせている。いつも女性誌が一番上を占領しているので、『フライの雑誌』は片づけられてしまったかと探して見ると、かならず一番下になっている。しょうがない、奥様が多いからなと思いながら、私の右手は『フライの雑誌』をすくいあげて一番上に置いている。

そんなある日、やせ細った80歳は行くだろうと思える老人が、緑の渓流の表紙の『フライの雑誌』第105号を食い入るように見ていた。見てくれる人がいるんだと私は嬉しくなって、80歳ぐらいの年輩者がそんなに食い入るように見ているページはどこだろうと思い、年輩者の前をゆっくり通り過ぎながらそっとのぞいた。牧浩之さんの鳥撃ちのページだった。

しばらくすると、受付の女性が「松井田猟友会さまー」とアナウンスした。金融機関の10分もない待ち時間で、置き場の一番下にあっただろう『フライの雑誌』の終わりに近い鳥撃ちのページを見つけ、真剣に記事を読むなんて、80歳を過ぎているだろう猟師の嗅覚はさすがだと思った。ぜい肉のない細身の体の猟師の後姿には、ベルトに今どきめずしいタオルがぶら下がっていた。

追伸2  『フライの雑誌』の編集長から「小板橋さん、〈箕輪城まつり〉の後篇が届かないですよ。前篇の頃はまだ草が緑だったのに、もうそちらは白くなってるんじゃないですか。」と電話をもらっちゃって、どうもすいませんでした。


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小板橋伸俊(アンクルサム/群馬県安中市松井田町)

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2015年12月29日

第13回 箕輪城まつり 「今、蘇る 戦国合戦絵巻」(1)

「箕輪城まつり」参加者申込書のチラシを手にした。今は子供も大人も田舎は少なくなっているから、こうしたチラシなどで募集しないと、お祭りもできなくなっているのが現状のようだ。私の町も2年に1回の秋祭りで、町内の山車を子供たちに引っ張ってもらうのだが、私の町内の子供は1人だけで、太鼓や笛など演奏するのは、違う町内の子供たちにお願いしている。その違う町内の子供たちも、あと何年かしたらいなくなる。いち田舎の問題ではなく日本が立ちいかなくなる現実がもう、始まっている。これからお祭りなのに何だか暗い気分になってしまった。ド〜と明るく行きましょう。

箕輪城まつりの申込書の写真を見ると「今、蘇る 戦国合戦絵巻第13回」とある。武者行列で終わりじゃないのか。へ〜と思ったら、私の脳味噌に「行かなくてはだめだろう」スイッチが入った。何10年か前、母が前橋の群大病院へ通院していた時から箕輪城は知っていた。地元の松井田城や人見城や後閑城などの本丸はぜんぶ猫の額のように随分狭い。

箕輪城もどうせ似たようなものだと、自分がすこし見下した気持ちで、下見に行った。すると手前に大きい駐車場ときれいなトイレもある。地元の人たちは随分気合が入っている。地元のお年寄りが1人何やら手入れをしていたので「ここから箕輪城へはどの位かかりますか」と尋ねるとすぐそこですと指さして教えてくれた。私も田舎者ですが、「田舎のすぐそこ」は1時間か2時間ならまだ近いほうのことが、往々にしてある。でも大きいカーブを2回ほど曲がると、もう本丸は目の前だった。

私の地元のお城は、本丸はかなりひいひい言いながらまだかと見上げる感覚だが、箕輪城は近いのと本丸の広さにビックリ仰天だ。箕郷の人には申し訳ないがこんなに広い土地があるなんて知らなかった。東京の皇居の中に入ったことがあるが、前もって大きくて広いということを脳味噌に詰め込んでいたせいか「へ〜」ぐらいだったが、箕輪城にはだまされた。

箕輪城の本丸は、南北が約100メートル、東西約70メートル。ちょっとオーバーかもしれないが日本もずいぶん大きいなと思えてしまった。自分は井の中の蛙であることを思い知らされた。

本丸の入り口の近くにポストがあり、箕輪城の歴史という説明書があったので1部をもらった。何も知らない私はお祭り気分で来たことを今恥じている。

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国指定史跡箕輪城跡 昭和62年12月17日国指定
平成18年2月13日(財) 日本城郭協会選定「日本百名城」

◎箕輪城の歴史
・箕輪城は西暦1500年ころに高崎市の浜川(はまがわ)地域を拠点にしていた長野(ながの)氏が築城した城です。
・長野氏に関する文書史料が少ないことから、築城年・築城者など不明の点が多くあります。後の系図などから、築城者長野業尚(なりひさ)尚業(ひさなり)で、その後、憲業(のりなり)信業(のぶなり)、業政(なりまさ)、業盛(なりもり)の計4代にわたって、長野氏が箕輪城を拠点にしていたと考えられています。
長野氏は業政の代に全盛期を迎え、西上野の諸将と婚姻関係を結び、勢力を広げました。永禄年間に入ると、西上野は甲斐の武田、相模(さがみ)の北条、越後の上杉の三巴(みつどもえ)の戦いの舞台になります。その結果、長野方の要所である国峰城(くにみねじょう)甘楽町(かんらまち)、安中城(あんなかじょう)(安中市)、松井田城(安中市)、倉賀野城(くらがのじょう)(高崎市)などが武田信玄によって落城してしまいます。こうした中、長野業政は関東管領山内上杉家に対して、最後まで尽くしていたことで知られています。そして、永禄9(1566)年、難攻不落であったと伝えられる箕輪城もついに落城することになりました。
・落城後は、武田・織田・北条・徳川氏の城として使われます。この間城主になったのは、各戦国大名の重臣で、武田氏時代(1566〜1582)年は内藤昌秀(まさひで)(昌豊)(まさとよ)など、武田氏時代は(1582年の1ヶ月弱)は滝川一益(かずます)、北条氏邦(うじくに)などが城主を務めています。そして、最後の徳川氏時代(1590〜1598)年な、井伊直政が徳川家康の家臣では最大の領地(12万石)を拝領し城主になっています。このように、戦国時代を通じて、
西上野で最大の拠点になった城です。

◎箕輪城の遺構
・箕輪城は1598(慶長3)年、高崎(和田)に移城したことによって、廃城となりました。
・廃城に伴う移築などから当時の建物は全く残っていませんが、大規模な堀や石垣 などは良好に残り、当時の様子を偲ばせています。
・箕輪城の最大の特長は、大規模な堀です。本丸周辺では最大幅30m、深さ10m空掘りが巡り、他にも、城の中央部を南北に分断する役割がある大掘切りなど同時代の城としては全国的な規模の堀が城内各所に残っています。なお、大部分の堀は空掘と思われます。
・大手門から本丸へ上がる途中の虎韜門(ことうもん)・鍛冶曲輪(かじぐるわ)・三の丸・二の丸などには石垣が残っています。城内の中でもこのルート沿いに石垣を集中しています。城の目立つ場所に城主の権威を示すために築かれたのかもしれません。
・箕輪城は長野氏以降、城主が度々変わっています。発掘調査などでは、城主の交代による城の造りかえの状況が明らかになって来ています。現在ある堀や石垣などは最後の井伊氏時代に使われていたもので、長野氏時代の城とはかなり異なっています。

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日本百名城にも選ばれているんだ。へ〜。二の丸は縦横80メートルの郭でやはり広い、空掘りもうっそうとしているがしっかり残っている。本丸入り口西側に箕輪城の歴史についての大きい碑がある。

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広い本丸の真中に大きい石が二つと幾つか小石もある。これは箕輪城の中心を意味しているのかな? その時は私の左手はもう大きく広げていた。五本の指が西暦1500年にタイムスリップして行く感覚を止められない。ア〜ッて、いう感覚が私の脳味噌を大きく揺るがしていた。

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本丸箕輪城には天守閣はなかったが、多数の「かわらけ」や楽茶腕などが発掘されていることから、城主の住む建物や軍議を開いたり、酒宴を催したりする館があったと推定されている。城主の交代を契機に城の造り替えが行われたことが発掘調査で確認されたそうだ。
本丸の北虎口(きたこぐち)の門は間口5.4m奥行3.3mで本丸の3ヶ所の門の中で最大の規模のもの。門跡の周囲には101個の四角い石塔で排水溝が造られ、石塔には梵字(ぼんじ)や15世紀の年号が刻まれているものもあった。これほど大量に石塔を用いた例は全国的にも珍しいといわれている。

当時はコンクリートなんてものもない訳だから、崩れないように人の手で石を積んだ。ものすごい労力が必要だったのだろうな、こんな山の中へ。と思うとなんだか当時その石を積み上げた人足か武将に、「お前も一つこの石を持ち上げてみろ」といわれたような気配を感じて、また左手の五本指が自然と石に触らされているように触っている自分がいた。「持ち上げるのは勘弁して下さい」と言葉にだしてはっきり言っている自分にハッとした。

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本丸の西虎口は、間口2.4m、奥行1.5mで堀の向こう側は蔵屋敷。橋台があったと考えられる場所には、大量の盛土が行われていた。橋の規模は橋上部の幅2.9m、高さ7.4m、長さ27mであったと推定されている。北虎口の辺を地元の夫婦か見学に来た2人連れが散策している。自然と一体になりいい時代だな、と感じた。でも西暦1500年ごろは何人もの武将や兵が命を張って闘っていた戦場の、その址であることは事実だ。

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御前曲輪は本丸の詰にあり、城は精神的な中心であった、西南の角に物見・戦闘指揮のための櫓があり、その下は石垣で固められている。落城の際、長野業盛以下が自刀した持仏堂があつたと伝えられている。井戸は昭和2年に発見された。御前曲輪西側の堀に架かっている木橋を渡った。

2005年の発掘調査では、ここから間口・奥行ともに3.1mの門跡が確認された。6つの礎石が全て残り、主柱2本を4本の控柱で支える四脚門と考えられるそうだ。門の雨落溝には156個の石塔の部材が用いられている。これを整然と並べ格調高く整備された門です。

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御前曲輪井戸は、昭和2年(1927)年8月15日豪雨のため一部地盤が沈下したのがきっかけで確認された。深さ20mの底から長野氏累代(るいだい)の墓石が多数掘り出された。恥ずかしいがこんなに大きい井戸は見たことがない。

三の丸のスペースでは、今でも木と木が鎧を着て日本刀でやりあっているように見えるのは私だけでしょうか? 城中の石垣で比較的良く残っているのはこの辺りだ。三の丸は二の丸の外にある郭である。入り口の三の丸門には、両側の石垣の上を渡した櫓がありその下は通路であった。

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鍛冶曲輪(かじくるわ)の石垣。鍛冶場のあった所で中世の大きな城にはよく見られ、ここで武具などを製作、修理した。このような石垣は、城内各所に見られる。虎韜門(ことうもん)、やっと搦手(からめて)城の裏門から箕輪城大手虎韜門口に出た。

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箕輪城の見所は、まだまだいっぱいあった。まさかこんなに時間が必要だとは思わなかった。山の中の薄暗い迷路のような箕輪城から、やっと見慣れた景色赤城山が私の目の前に広がった。西暦1500年から現在に生き返ったようで、気がつくと私の喉がからからだ。お城を散策してこんなに心地よく疲れたのは初めてだ。

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追伸・・・箕輪城の下見だけでこんなに時間を取ってしまいましたので、本番の箕輪城まつりは次にさせて下さい。

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小板橋伸俊(アンクルサム/群馬県安中市松井田町)

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